元々は宿場町。人が集まる場所には商売が生まれ、人々のニーズに合わせて様々な商売が始まっていく。時代性や時代に合わせた客の二ーズの変化に対応して、商売も様々に変化を遂げ、現在も多くの人が集まる場所として「新宿歌舞伎町」が存在している。
このような風俗を中心とした新宿歌舞伎町周辺の歴史の話を、講師の実際の経験話も交えて、面白く聞くことが出来ました。本ツアーは、約30人の参加者のうち8対2の割合で圧倒的に女性の参加者が多いツアーでした。
会場は、歌舞伎町のビル郡が見下ろせる靖国通り沿いビル8階の約10畳ほどの囲碁サロン。窓から歌舞伎町のネオンがポツポツともりはじめたのが見えはじめた頃、優雅なインド風の民族衣装を身にまとった講師の早乙女宏美さんがさわやかな笑顔で登場。
壁に貼った戦前の新宿地図で場所を確認しながら講師手製の『新宿風俗年表』を基に、講演が始まりました。
無声映画の弁士もされているという講師の軽快な語りに魅せられたこともありあっという間の2時間でした。その後の交流会も講師を囲み参加者どうし和気藹々とした雰囲気で深夜近くまで盛り上がりました。
【新宿風俗史ダイジェスト】
『1922年(大正11)新宿に散らばっていた遊女屋、新宿2丁目の一角へ強制移動させられる。(53軒、636名の娼妓)』
『1930年(昭和5年)歌舞伎座「菊屋」オープン』
戦前、新宿には約14、15軒の映画館や劇場があった。戦後、1946年、帝都座(日活映画館として1932年(大正7)開館)というダンスホールで史上初のストリップショウの基とも言える『額縁ショウ』が行われた。これは、西洋絵画『ヴィーナス誕生』をモチーフに、ヴイーナス役の女性モデルが胸も下半身も露出せず動かない状態で名画を再現しただけのもので極めて芸術性の高い内容であった。そうはいってもトップレスに近い女性が近くで見られることは当時としては珍しいことであったので『額縁ショウ』は連日超満員で定員420人以上集まったので2回目は違う絵画をモチーフにした内容で行われた。しかし質の高いレビューショウを維持するのは困難であったようで『帝都座』や『ムーランルージュ』などたくさんのダンサーを抱えたショウを重視する劇場は1948年から1950年代にかけて続々と閉館していった。
1958年に売春防止法でいわゆる『赤線』といわれていた売春公認地帯がなくなった頃、日本は、高度成長期に入る。そして1960年代、東京オリンピックの区画整理でラブホテルが代々木から新宿に移動し、開業ラッシュとなった。ラブホテルも多様化し、中には2DKの広さで様々な趣向を凝らした一泊5万円の豪華なものも人気があったという。ラブホテルは、街頭売春する『立ちんぼ』と呼ばれた男娼、娼婦だけでなく夫婦利用者も多かった。それは当時の狭い住宅事情もあるが夫婦の性行為について、『子孫繁栄のためだけではなく、性行為自体を楽しむ』という考え方が広がった影響もあると言われている。
その頃から、以前の『赤線』とさほど変わらぬ売春サービスをする店が増え、派遣売春の形態をとる店も出没しはじめた。また、1970年代後半から1990年に入国管理法が改正されるまではいわゆる『じゃぱゆきさん』と呼ばれるフィリピン人女性が歌舞伎町でたくさん働いていた。(入国管理法以降はチリやコロンビア等の南米女性が増えた。)
1980年代に入ると『新風俗』といわれる多様なジャンルの影響か、『ストリップ劇場』でも観客に直接性的サービスする内容のものが一般的になった。
そして1986年のエイズパニックの影響で閉店に追い込まれる店舗が続々と歌舞伎町でも出た頃、成人向けのビデオ専門店が流行る。1990年代、『暴力団新法』『テレクラ規制条例』、再度、『風俗営業法改正』など施行される一方、インターネットの出会い系サイトによる売春や『援交』といわれる『児童買春』も社会問題化し、未成年者の性病感染者も増加した。2000年以降、歌舞伎町に『ぼったくり防止条例』『防犯カメラ』導入、『東京都改正青少年健全育成条例』『東京都迷惑防止条例』などの数々の浄化政策が施行され、客引き、キャッチなどが表面上、姿を消し現在に至る。
そんな現在の新宿、歌舞伎町について講師は、
- 「全体的にいまの歌舞伎町界隈は時代を反映していてか昔に比べて淡白になってきている。さっぱりした広く浅い街。いい意味で『濃い人』が消えたし、以前のような『熱さ』が薄まってきている感じでちょっと面白みに欠けてきている。」
と見るその一方で
- 「浄化というのは言い換えればただ単に地下に潜っているだけであり、表面化していない部分がかなりある。」
という言葉に決して一口では言い尽くせない町の奥深さを感じた。