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〜南千住ツアー〜 レポート ウークイにエイサー 
ストリップ発祥の地より愛をこめてメ@

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〜南千住ツアー〜 レポート
8/18

報告 山野恵美

 上野の寛永寺から続き、奥州に向かう日光街道最初の宿場街である千住は、北への玄関口として栄えました。千住大橋を境に、北側(現・足立区)を「大千住」「千住北組」、南側(荒川区)を「小千住」「千住南組」と呼んでいたそうです。「東海道品川宿」「中山道板橋宿」「甲州街道内藤新宿」と並んで、江戸四宿の一つに数えられた千住宿は、宿泊所、商店、材木屋、飯盛旅籠などが賑わう繁華街です。現在も「石川屋敷跡」「宗屋敷跡」「大関屋敷跡」が標されている千住ですが、今日は南千住を歩いてみました。

 まず、私たちが向かったのは「浄閑寺」。浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号します。安政二年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから、別名「投込寺」と呼ばれています。その数は二万人を越えると言われています。こうした遊女達の霊を供養するため、浄閑寺には新吉原総霊塔が建てられました。遊女達の没年齢は大半が二十代だそうで、若くして亡くなった彼女達の存在を現在も証明するものとなっています。

 下谷道を歩いていると、黄金色に輝きそびえ立つものが見えてきます。「円通寺」です。延歴十年(791)に坂上田村麻呂が開創したと伝えられています。江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」と呼ばれました。秩父・板東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったので、通称「百観音」と言われ親しまれましたが、安政二年(1855)の大地震で倒壊してしまいました。

 続いて向かったのが、「素盞雄神社」。小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「おてんのうさま」とも呼ばれています。松尾芭蕉が旅立つ前にお参りしたとも言われています。ここには「子育てのいちょう」というイチョウの木かあり、出産の無事や子供の健やかな成長を願う母親がたくさん参拝しています。昔は子供が健康に育つのが困難だったため、日々成長を願っていたようです。

 「ふるさと文化館」「南千住図書館」で自由行動。参加者は思い思いに資料を見たり、図書館でくつろいだりと充実した時間を過ごしました。外は日差しが強く、汗がしたたり落ちてくるので、ここで過ごす時間は涼しくて心地よいものでした。

 正午をまわりそろそろお腹も空いてきた頃、私たちは「荒川区社会福祉協議会・ボランティアセンター」で昼食をとりました。ご飯を食べながら参加者はおしゃべりをし、仲を深め、楽しい時間となりました。

 午後は昼食でうちとけたこともあり、和やかな雰囲気でのツアーになりました。午後一番は「延命寺」。ここは江戸の仕置場(刑場)でした。間口60間余(約108メートル)、奥行30間余(54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまで獄門などが執行されました。この辺りは昔、野原だったようですが現在は周りにビルや住宅などが建っており、時代の変化がうかがえます。ここにどっしりと座っている首切地蔵は区指定文化財にもなっており、今でも迫力満天です。

 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士が葬られた「回向院」を見学し、最後に福祉ショップ「いつか堂」へ行きました。「いつか堂」を運営するのは、アルコール依存症、身体障害、知的障害、精神障害などの当事者や彼らを支援する7つのNPOのコラボレーションによって生まれたお店です。“いつか大きくなろう”という思いからこの名前になったようです。店舗を拡大するという意味ではなく、お店を通して地域を活性化させるような大きな展開をしていきたいという願いがこめられている名前です。店内を覗くと、その願いのような手作り感あふれる品物がたくさんありました。手作りのクッキーや、水彩で描かれたはがき、古着などが並んでいてとても親しみを感じる店内でした。

 南千住駅で解散し、本日のツアーは終了しました。暑い中でしたが、おしゃべりをしながら歩くツアーは楽しいものでした。繁華街にかいま見える歴史を十分に味わえたのではないでしょうか。

ウークイにエイサー報告
8/19

報告 秋池智子

 琉球センター・どぅたっちは、沖縄の物産や文化情報が得られ、人が豊かに出会い、交差し、発信し合うところでもあります。商品はすべて沖縄産で、沖縄にこだわったライブやトーク、ビデオ上映などのイベントも人気です。多文化たんけん隊でもおなじみとなったこのお店で、まずは、太田さんに“ウークイ”“エイサー”についてのお話をうかがいました。

店内 ウークイとは、旧盆の“送り”の行事のこと。仏壇に置かれていた位牌やお供え物などを玄関先に持っていき、あの世のお金となる紙を燃やし、あの世に帰る先祖の霊を送る儀式だそうです。多文化たんけん隊でボランティアとして活躍してくださった、Fさんの新盆送りをどぅたっちで行ったこともあります。

 沖縄県は伝統芸能の宝庫と言われていますが、そのひとつにエイサーがあります。エイサーは、日本本土でいう盆踊りのようなもので、旧盆に行う行事。沖縄夏の風物詩の代表格であり、若者たちが太鼓を打ち鳴らし、踊りながら練り歩く勇壮でダイナミックな沖縄の芸能です。

 1603年、袋中上人が沖縄に来て輸入した念仏を通俗的に訳し、何十種というフシをつけて歌いました。その念仏歌を歌う専門の念仏者が出るようになり、盆に念仏者を呼び、念仏歌を歌って精霊を供養するようになったそうです。この念仏者は、萬歳踊りをする京太郎(流れの繰り人形師)で、彼らが呼ばれて念仏踊りをするようになったとか。その念仏踊りがエイサーの前身と言われています。

公園でエイサー 太田さんのお話のあと、近くの公園で1時間ほどエイサーの練習。見るとやるとは大違いで、激しい動きに参加者の皆さんも必死についていきます。エイサーの練習を終え、どぅたっちに戻り、島袋さんのお料理と泡盛をいただきました。島袋さんは、沖縄で生まれていない沖縄人だそうです。「このところ沖縄が流行しているけれど、表面だけでなく、沖縄そのものを知ってほしい」と島袋さん。

 23時に、ようやく店じまい。大田さん、島袋さん、今年も楽しいひとときをありがとうございました。


『新宿、ストリップ発祥の地より愛をこめて』 レポート
9/1

報告 百武・sako

 元々は宿場町。人が集まる場所には商売が生まれ、人々のニーズに合わせて様々な商売が始まっていく。時代性や時代に合わせた客の二ーズの変化に対応して、商売も様々に変化を遂げ、現在も多くの人が集まる場所として「新宿歌舞伎町」が存在している。
 このような風俗を中心とした新宿歌舞伎町周辺の歴史の話を、講師の実際の経験話も交えて、面白く聞くことが出来ました。本ツアーは、約30人の参加者のうち8対2の割合で圧倒的に女性の参加者が多いツアーでした。
 会場は、歌舞伎町のビル郡が見下ろせる靖国通り沿いビル8階の約10畳ほどの囲碁サロン。窓から歌舞伎町のネオンがポツポツともりはじめたのが見えはじめた頃、優雅なインド風の民族衣装を身にまとった講師の早乙女宏美さんがさわやかな笑顔で登場。
 壁に貼った戦前の新宿地図で場所を確認しながら講師手製の『新宿風俗年表』を基に、講演が始まりました。
 無声映画の弁士もされているという講師の軽快な語りに魅せられたこともありあっという間の2時間でした。その後の交流会も講師を囲み参加者どうし和気藹々とした雰囲気で深夜近くまで盛り上がりました。

【新宿風俗史ダイジェスト】
 『1922年(大正11)新宿に散らばっていた遊女屋、新宿2丁目の一角へ強制移動させられる。(53軒、636名の娼妓)』
 『1930年(昭和5年)歌舞伎座「菊屋」オープン』

 戦前、新宿には約14、15軒の映画館や劇場があった。戦後、1946年、帝都座(日活映画館として1932年(大正7)開館)というダンスホールで史上初のストリップショウの基とも言える『額縁ショウ』が行われた。これは、西洋絵画『ヴィーナス誕生』をモチーフに、ヴイーナス役の女性モデルが胸も下半身も露出せず動かない状態で名画を再現しただけのもので極めて芸術性の高い内容であった。そうはいってもトップレスに近い女性が近くで見られることは当時としては珍しいことであったので『額縁ショウ』は連日超満員で定員420人以上集まったので2回目は違う絵画をモチーフにした内容で行われた。しかし質の高いレビューショウを維持するのは困難であったようで『帝都座』『ムーランルージュ』などたくさんのダンサーを抱えたショウを重視する劇場は1948年から1950年代にかけて続々と閉館していった。
 1958年に売春防止法でいわゆる『赤線』といわれていた売春公認地帯がなくなった頃、日本は、高度成長期に入る。そして1960年代、東京オリンピックの区画整理でラブホテルが代々木から新宿に移動し、開業ラッシュとなった。ラブホテルも多様化し、中には2DKの広さで様々な趣向を凝らした一泊5万円の豪華なものも人気があったという。ラブホテルは、街頭売春する『立ちんぼ』と呼ばれた男娼、娼婦だけでなく夫婦利用者も多かった。それは当時の狭い住宅事情もあるが夫婦の性行為について、『子孫繁栄のためだけではなく、性行為自体を楽しむ』という考え方が広がった影響もあると言われている。
 その頃から、以前の『赤線』とさほど変わらぬ売春サービスをする店が増え、派遣売春の形態をとる店も出没しはじめた。また、1970年代後半から1990年に入国管理法が改正されるまではいわゆる『じゃぱゆきさん』と呼ばれるフィリピン人女性が歌舞伎町でたくさん働いていた。(入国管理法以降はチリやコロンビア等の南米女性が増えた。)
 1980年代に入ると『新風俗』といわれる多様なジャンルの影響か、『ストリップ劇場』でも観客に直接性的サービスする内容のものが一般的になった。
 そして1986年のエイズパニックの影響で閉店に追い込まれる店舗が続々と歌舞伎町でも出た頃、成人向けのビデオ専門店が流行る。1990年代、『暴力団新法』『テレクラ規制条例』、再度、『風俗営業法改正』など施行される一方、インターネットの出会い系サイトによる売春や『援交』といわれる『児童買春』も社会問題化し、未成年者の性病感染者も増加した。2000年以降、歌舞伎町に『ぼったくり防止条例』『防犯カメラ』導入、『東京都改正青少年健全育成条例』『東京都迷惑防止条例』などの数々の浄化政策が施行され、客引き、キャッチなどが表面上、姿を消し現在に至る。
 そんな現在の新宿、歌舞伎町について講師は、

「全体的にいまの歌舞伎町界隈は時代を反映していてか昔に比べて淡白になってきている。さっぱりした広く浅い街。いい意味で『濃い人』が消えたし、以前のような『熱さ』が薄まってきている感じでちょっと面白みに欠けてきている。」

と見るその一方で

「浄化というのは言い換えればただ単に地下に潜っているだけであり、表面化していない部分がかなりある。」

という言葉に決して一口では言い尽くせない町の奥深さを感じた。


(参加者の声)

  • 東京に20年以上住んでいて、更に西新宿の某大学に通っていた僕ですが、実は歌舞伎町を訪れたことは一度もありません。(通り道の過程で歩いたことはありましたが)「男と女」「お酒」「お金」「風俗」「暴力団」「犯罪」「雑多」等など、色々なイメージが入り混じった混沌とした街。このようなイメージが僕を「歌舞伎町=近寄りがたい街」としていました。
    それでもやっぱり興味はあるんですね。そういったちょっと複雑な心情の元、今回早乙女さんの話を聞きにプログラムに参加しました。人々の欲望をダイレクトに受け止めてきた「日本一熱い街」。
    特に終戦後の日本の成長の歴史を裏から支えてきたマーケットの象徴として、重要な役割を担ってきたのではないかと感じました

  • 内容に関心を持って参加したのだが、性風俗や買春という行為に対して否定的な見解を持っていたので参加する前は少なからず緊張していた。早乙女さんの経歴を見て自分の中で勝手にイメージをつくっていたのだが実際、お会いするとそのイメージとは全く違った女性だった。
    早乙女さんは一見すると少女のような可憐な幼さが残っていてだけどしゃべり始めるとまるで弁士のよう。結構、過激なことばを交えながらでも少しもいやらしさがない。そして自分の仕事に自信とプライドを持っているのが話のすみずみから感じられた。なんだか不思議な感じだった。そして改めて思ったのは自分の先入観を外すには直接顔の見える関係の中でひとりひとりと出会っていくしか方法がない。早乙女さんのような人もいるし、でももしかしたら別の経験をしている人もいるのかもしれない。すべてを普遍化したり一般化したりするのではなくひとりひとりと出会いその中で迷いつつもきちんと人と向かい合っていきたい。先入観や偏見で判断するのではなく。そういう風に改めて確信した時間でした。交流会でも早乙女さんは相変わらず自然体でどこかつきぬけたような感じの人で何を言っても受け流してくれそうな軽やかさを感じました。素敵な人ですね。

  • 友人と参加させてもらったのですが、早乙女さん自身の声をもうちょっと聞きたかったという意見が多かったように思います。また、80年代や90年代など、今の時代に近い年代の話を重点的にお話されたらもっと身近な問題として聞けたのではないかと思いました。もしまた今度お話をお聞きできる機会があればよろしくお願いします。それよりも早乙女さんが当事者としてお話していただけたということに大きな感謝の気持ちを伝えたいです。早乙女さんが新宿で長い間、性風俗のいろいろな現場や風景をちゃんとしっかりみてきていて、記憶し、それを今伝えているということ自体がすばらしいことだと思いますし、感動しました。なかなか聞けない話だと思います。新宿の歴史について自分の知っていること以上に詳しく調べたりしているのは、エネルギーのいることだし、新宿に愛着を持っていたり新宿の地で一生懸命暮らしてきたという自覚がないとできないことなのではないかと少し思いました。早乙女さんのような人が少しでも増えることが、新宿を多文化で多国籍で元気で生き生きとした街として人々が支えていくことにつながるのではないでしょうか。何か私にもできることをみつけて新宿を守っていきたいと思いました。

  • 早乙女さんの生き生きとしたテンポのよい語り口から人柄、人生経験の深さが感じられて聞き入ってしまいました。人間の欲望と文化表現の欲求って新宿では一体だな!と思いました。

  • 978年〜1982年頃、キャバレーのバンドでギタリストをしていてストリップの生伴奏もやりました。当時はヤクザのシノギも今ほどえげつなくもなくまだ大らかであったようにおぼえています。(髪の毛売ったり、若いヤクザに金貸しドロンされ後でその親分さんから10倍以上の金戻ってきたり等ヘンなことが色々ありました。)性風俗にはほとんど触れたことがなかったのですがやはり世につれ…というか生きた…それこそ風俗の歴史感じられ(当然、早乙女さんの人柄にもよりましょう)大変面白く拝聴しました。

  • 早乙女さんが、新宿の雑多多様な性風俗の仕事や現象でもすべてに賛同しているわけではなくひとりのプロの大人の女性としてきちんと各々について意見を持っていることがわかった。『援助交際』とよばれる青少年の買春問題についても、「こども自身が、自分の価値を低くみているのは問題」というのは同感です。勿論、こどもをお金で買う大人が一番いけないのですがこどもが自分を大切にする、自尊心を育てる環境を自分も含めた大人がつくることも重要だと思いました。
    追伸:『性の仕事師』も面白く読みますます早乙女さんのことがもっと知りたくなりました。ぜひ来年もお話してほしい。(休憩時間、本に筆ペンでサインしてもらいましたが字もすごくきれいで芸術的でした。)また早乙女さんのショウや舞台も見たいと思いました。



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